福岡市西区姪浜駅近くの静かな住宅街にひっそり溶け込む隠れ家整体院。
自然整体ウツロイです。
そろそろYouTubeの再開か、ポッドキャストを…と考えているのですが、何とも腰が重い。
こんな時は無理矢理押し進めるより、フッと降りてくる神からのお示しを待つ方が好ましい。
という事で、もうしばらく待つことに。
突然ですが、ダーウィンの進化論で言えば、人間は猿から派生し進化したとされています。
ですが、これは「論」なので、論じられている途中、ということになります。
ある程度形として成り立ったものは「学」となります。
解剖学、生理学、免疫学、栄養学、神経学、薬学、病理学、数学、語学…
ちなみに、スピリチュアル的、神秘的な事象などについても、実は「神秘学」という学問があります。
おもしろそうですね。
論は、まだ確固たる学問として成り立っているわけではなく、まだまだ論じる余地があるわけです。
(○○学も、改められる部分も多くありますが)
簡単に言うと、「私の研究上、○○である事が推測される。皆さんはこれについてどう感じるだろうか?」という状態ですね。
ダーウィンの進化論では、人は徐々に進化したものとされていますが、近年では、人間は「突如として現れた」という説の方が有力だという事です。
動物は、生活環境によって変化して生活圏を広げて行きます。
寒い地域では体を大きくしたり、暑い地域では体を小さくしたり、体表にたくさんの針を生やしてみたり、丸まったり、細くなったり、毒を持ったり…
進化…というより変化ですね。
日本猿はお山の大将が一匹居て、その座を争います。
なんたって、お山の大将は別の雄の嫁さん猿であろうが、誰であろうが気に入った雌猿は全てオレのモノ!
小猿が食べてるモノもオレのモノ!
みたいな、知性の低さがあります。
ジャイアンよりタチが悪い。
チンパンジーも似た様なところがあります。
人間とチンパンジーのDNAの違いは、約1%と言われていますが、1%の違いでは説明できないほどの差がありますが、皆さんはどう思いますか?
さて、一番知性的なのはゴリラです。
リーダーゴリラは、群れの頂点でありながら、日本猿とは異なり、群れを率先して護り、闘います。
雌や子ゴリラにも優しく、他のゴリラ達に慕われており、とても温厚です。
怒ると怖いけど、人間より平和主義で知性溢れるように思うのはぼくだけでしょうか?
そのくらいの知性的な生物になってくると、もしかしたら「感謝」や「祈り」に似たような精神を持つかも知れませんが、基本的にこれらの上位の概念は、今のところ人間のみが有しています。
バナナを貰ったら「ありがとう」
は、形式的に“できる”かも知れませんが、感謝するという概念はないに等しいと思います。
バナナをくれてありがとう!今日1日、あなたにとても良い事が起こりますように!
とか、
大好きな家族の事を想って祈りを捧げる。
故人を偲び、祈りを捧げる。
などという高次の概念、精神性は、もはや人間にしかできません。
逆を言えば、“それ”ができるからこそ、人間という種なのかも知れません。
(感謝や祈りの精神を大切にしよう!)
これは単に「脳」が進化した。
と言って終わる内容でしょうか。
動物が進化したら、「言葉」を得られるでしょうか?
さらには「感謝」や「祈り」の概念を得られるでしょうか?
ただ単なる進化では、この概念を得ることは、おそらく無理だろうと思います。
鳴き声や木々をぶつけたりなどで「音」を発してコミュニケーションを取ることはできるけど
音なだけで「言葉」ではない。
言葉がなければ、高次の概念を得ることも、生み出すこともできない。
人間が神を模して造られた当初は、言葉ではなくテレパシーでコミュニケーションを取っていたと言われています。
言葉を介さずとも、相手の思考や望み、気持ちが瞬時に理解できており、「嘘」を付くことはできなかったと言います。
そういう面では「言葉」は、若干の退化と言えてしまいますが、それは神に近すぎる。

最初に「無理矢理押し進めるより、フッと降りてくる神からのお示し」と言う話しをしていますが
頑張って、頑張って、何がなんでも推し進め、進化に進化を重ねても得られるモノと得られないモノがある。
進化、成長をして高次の概念を得られないのと同じように
思いもよらない様な、高次のナニカは、神が用意して降ろしてくる。
と、まぁ、なんかもっともらしい論理的な文章で、努力せずとも良い結果が得られるようなことを書いて、努力しようとしないインチキヤロウです(笑)
皆さんは、こんなヤツに騙されないように気をつけてください!(笑)
努力の「努」は、奴隷の「奴」の下に「力」と書きます。
又は、元々「手」を表します。
「手」とは「労力」も表します。
ここでの「女」は力弱い者、手を尽くす者を表し、つきしたがう「隷」を合わせて奴隷となる。
その「奴」の下に「力」
「努」とは、労力に労力を重ねよ。と言う意味で、さらに「力」を加え「努力」の意味となる。
とにかく労力に労力重ね、惜しまず力を尽くせ。です。
根性論の最たるが努力みたいになってしまいますが、これが楽しくて楽しくて面白くて、愚痴や泣き言が出ないなら努力することに越したことはないかも知れません。
でも、不平不満や文句ばっかり言いながらやるなら、努力なんてしない方が身のためです。
自分に合ってない、向いてない、害なだけ。
努力するなら、楽しく。
YouTubeが楽しくてがんばるならいいけど、いろいろあって、そうではなくなってしまったのでストップしました。
でも、いつかまた楽しみになったらいいな〜